コロナに負けない;緊急事態宣言とマスコミについて考える
今回の新型コロナウィルスの対応をめぐって、様々な断面で、この日本という国の成り立ちを考える機会があります。
諸外国がたいへん厳しい罰則付きの外出禁止や都市封鎖を行って、ウィルスの拡散を防御していること、あるいは、そのような対策を打っても、感染者や死者の数を抑え込むのにたいへん苦労しているという状況を見てきているはずです。
それに対して、日本の政府が発令した緊急事態宣言は、たいへんゆるいもので掛け声に過ぎないのではないかと海外のメディアから酷評されているようです。「つべこべ言うのは勝手だけれど、結果をみてくて!」ということが言えるように、「日本流」のやり方で、ウィルスの影響を絶つことができればしめたものです。
それは数日たてばわかることですので、ここでは、余計なことかもしれませんが、そうならず、海外と同様に医療崩壊に向かう道をたどるほど感染者や死者の増加が抑えきれないケースも念頭におきながら、何がマズいのか、書いておきたいと思います。
私は、ひとつにマスコミの姿勢があるのではないかと思います。
3月29日に志村けんさんが亡くなって、少し、身の引き締まる思いを持った方もおられることと思います。その直前は、東京で桜が満開になったこともあって、春分の日を含む三連休あたりから、大きな気のゆるみがあったように思います。
東京都は早くから上野公園での花見を禁止しておりました。ではテレビはどうかといえば、それに同調して抑制的なトーンで報道すべきかと思いますが、アナウンサーは、そういうセリフを語りながら、映像では、掟破りで敷物を敷いて花見をする小集団をわざわざ映してみせる。あるいは、車座にはなっていないものの、縁石に一列になって缶ビールなどを飲んでいる集団をとりあげる。これも「自由」なのかもしれませんが、自粛要請をお上が唱えても、どうせ全部は取り締まることができないのだ、ということを茶化しているのではないか。マスコミは、そのような「ショー」として、上野公園の花見禁止が庶民の生活を取り締まることができていないことを誇らしげに拡散する役割を担ってきたのではないかという気がしてなりません。
同様に、スーパーからトイレットペーパーがなくなった際にも、ざわざわ、カラになった棚の映像をながすことによって、「乗り遅れたらたいへんだ」という情報を、これも、「ショー」のひとつとして宣伝してきたのではないかという気がしております。
背景には、そのような、取り上げ方を違和感なく受け入れてしまう「国民性」があるように思います。太平洋戦争に突入したことは天皇を担いだ日本帝国軍部の独走であり、無批判にそれに従ったことを大いに反省しなければならない、こととして、政府が「A」といえば、「B」という、深刻に要請しても、落語か漫才のようにそれを茶化して、庶民の日常は変わらないと跳ね返して見せる、そういう伝統の潮流がかなり深く、われわれに浸透してしまっていることを懸念します。
無頓着にカラオケに集まったり、海外旅行の後に卒業を祝う会に出席してウィルスを拡散させた若者をたたくのもいいが、巣鴨通り商店街に「4のつく日」に繰り出す高齢者はどうなのか、そういう映像も、「庶民はしたたかに生活している」という「ショー」を映すための道具立てでしかないような気がします。
「毎年インフルエンザで万単位の人が死んでいるのに、それほど死者の出ていない新型コロナを大騒ぎし過ぎ」、「BCGを接種している国は症状が軽いので、日本は欧米のように大量の死者がでるわけがない」、「外出を自粛して経済活動をストップさせたら、つぶれる店や企業が大量に出て、失業や収入源でコロナよりも死者が増える」など、ルールをやぶる理屈はたくさんあります。
政府や各都府県の知事が訴えかける要請の内容に、微妙に温度差があるのは事実ですが、それを分析して政府批判や知事の政策批判をしてもはじまらない。「そんなに不統一なのだから、どれにしたがったらいいかわからない」という言い訳を誘導し、ここでも、ルールやぶりの先導役を買って出ることになっている。
ここまで、縷々書いてきましたが、「日本国民は礼儀正しく、規則を守るのだから、罰則なしの「要請」であっても、それにきちんと応えて、結果として、ウィルスの拡散防止の模範国になった」というような結果が4月末に現れれば、それに越したことはありません。一人ひとりの努力にかかっています。
(写真は、acworksさんによる「写真AC」からいただきました)